下書き②

邪に生きることを覚えておおよそ1年と少しが過ぎて、精神的なすべてを共有することの限界を知る。

神様の死角にある僕たちの理想郷はいつも真っ暗だ。お互いの心臓を無理くりにでも燃やして、暖をとったり、わずかばかりの視界を確保するばかり。

ひとまずユートピアは存続させる方向性。

下書き①

 自分の中にたくさんの抽象物を見ている。それ自体の総数は日を追うごとに増えていく一方なのだけれど、実際問題そこにあるものをとりまとめて表すなら、健康な微生物の群体に近いものかもしれない。

 

 理想像と実態の乖離に異を唱えるのは不毛だと思う。できることは、きれいになるようにと願いを込めて地層の形成過程を観察すること。そして、たまに木の枝でそれらしい模様を付け加えること。併せて、それ自体の全体像が見渡せるくらいの広い視野を共有すること。ときどきは読めない部分があってもいいしさ。

 

 実験は続く。裏付けのためには試行回数が全然足りないから。

みたらし

春休みの或る日のことだった。下宿にて、読んで字のごとく三日三晩寝っ転がっていた私はふっと思い立って、散歩に出かけることに決めた。いつも通りにシャワーを浴び、髪を適当に乾かす。それから、ちょっとクローゼットを漁った。これは先一昨日までとは違うところだ。

 

―――

 

暇に飽かして、肩に大きなカメラを提げたまま結構な距離を歩く。春先にしてはやけに暖かだったその日には、私の厚手の上着は不釣り合いだったようだ。後悔先に立たず、という言葉を何度も反芻しながら歩くと、そこに見慣れた河川が横たわっていた。鴨川である。

 

私は鴨川に沿って歩くことにした。昼下がりのうだるような暑さには鴨川の水がよく効くのだ、と下鴨の雑貨屋の店主が口にしていた気がする。けれども、この非常に乾いた喉はそれを求めてはいなかった。やれやれ。勢いに任せて川の水を飲むような義務教育はとっくに済ませてある、と言わんばかりの顔つきで歩けば、道沿いに一軒の茶屋があった。

 

なんとなく、見覚えがあるような気がした。どこか懐かしい、ありふれた、けれども確かな存在感を放つ茶屋であった。屋外の赤い縁台に腰掛けながら、3本のみたらし団子に目を輝かせる。

ここのみたらし団子は予想外にうまかった。奥ゆかしい味のするタレにまったりと舌鼓を打ちながら、冷たいお茶で喉を潤した。至福と同時に「みたらし」から、かの有名な向かいの神社の祭りを連想する。正確には、ゆっくりと記憶が清算されていく。

透き通った水に2枚の薄紙が浮かぶ様子が、今も尚、脳裏に焼き付けられていた。

記憶がだんだんと蘇ってきて、縁台の空白がなんだかぎこちなく思えて、唐突に哀しみに苛まれる。それからは、コンピュータが破損したデータを修復するみたいに、少しばかり呆然とする時間を要した。

 

―――

 

少し時間が経って、ようやく我を取り戻した私は席を立った。

せっかく来たのだから、と向かいの神社に足を向けた。何か気持ちの高揚するようなものを。花でも、撮って帰ろう。この季節なら、梅が良いかな。

 

境内に立ち入って辺りを見渡す。ぼんやりとふらついていると、すっかり散ってしまった梅の木が、ただそこに在った。どうやら先日の大雨を受けて、今年の梅はもうみんな終わってしまったらしい。

 

―――

 

私は諦めて帰途についた。夕暮れに差し掛かり、橋の上から見た鴨川には夕焼けのオレンジがきらきらとはじけている。祭りのあとの鴨川もこんな色だったっけ。もうきっとなんにも覚えていないから、尋ねることもないけれど。

 

行きと同じ言葉が、しつこいくらいに脳みそにこだまする。

鬱屈した気持ちを抱えながら、私は家路を急ぐのだった。

ロールケーキ

 

約束の時間になってもあの子は現れなかった。鞄から携帯電話を取り出して、LINEのトーク欄を遡ると、17番目に彼女がいた。

 

5コール目と6コール目の間で繋がる。しばらく、ムニャムニャ、といった眠気混じりのおぼつかない返事が何度か続いた。ようやく意識がしっかりするや否や、今すぐ行くから、と言い残して、電話口の彼女は消えた。

 

―――

 

40分ほど待っただろうか。対岸のバス停に手を振る女の子の姿が見えた。

 

実に半年ぶりだった。再会の喜びに満ち溢れた僕の表情には目もくれず、彼女は軽やかな足取りで一直線に楽器屋へ向かった。

ちょっとした階段を上った先にあるその楽器屋は、多くのエフェクターを取り揃えていることで界隈では有名だった。黄色と赤のエフェクターを店員が手際良く繋いでいく。隣でそれをじっと見つめる大きな目は、今にも弾け飛びそうなほどの興奮を湛えていた。

 

待ちに待ったその時が、来た。彼女は赤いテレキャスターを手に取って、少し微笑み、真っ先にお気に入りの軽快なカッティング・フレーズを楽しんだ後、ゆっくりと音色を確かめ始めた。

 

―――

 

店を出るころには街は夜を迎えていた。疲れた、以外の言葉を忘れた彼女を連れて、僕達は商店街沿いに見つけた階段を下りた。途中の出っ張りで頭をぶつけないように、注意を払いながら地下空間へと沈んでいく。

 

大通り沿いのその喫茶店は、今日に限ってはやけにがらんどうで、ウエイトレスの女性は僕達を奥の広々としたソファ席に通してくれた。疲れ切った彼女は席に着くや否やぼうっとしていたので、僕は彼女の代わりに注文を済ませて、ただ、じっとすることにした。

 

しばらくしてホットコーヒー、ホットココア、そしてふたつのロールケーキが運ばれてきた。どっちがいいかい、と分かり切ったことを尋ねるより先に、彼女はココアに口を付けてほっとした表情を浮かべる。それから僕達はそれぞれの半年間についての話に花を咲かせた。話題は尽きることがなかった。

 

―――

 

カウンターからは見えないその席には、きっと魔力がある。彼女がうたた寝に入ってからゆうに30分が経過した。僕は時々その寝顔を見やりながら、そしてため息を零しながら、これからのことを考えていた。

 

―――

 

時計の針が22時を指した頃にようやく起き出した彼女を連れて、僕たちはまた階段を上がった。あっという間だった。確かにそこに在ったはずの3時間が30分に感じられてしまって、やけに哀しくなってしまう。

 

郊外にある彼女の家へのバスは、次が最後の1本だった。

未だ眠気に取りつかれているらしい彼女の手を引いて、少し先のバス停に着いた頃にはちょうどバスの姿があった。

瞬間、手は離れた。

生活は繰り返して、残酷にも元の形を取り戻すのだった。