スマホ首を意識する日

一応はライターという肩書を乗っけた体で生きているので(57577)、スケジュール帳が空っぽだった昨日の内実をなんとはなしに書いてみる。

 

たいていぼくにとって日曜日というのはひとりきりで何事かにふける日のことを指すのだが、例によって昨日も"半分"はそうであった。もう半分はふたりきりだったのだが、それは読者諸氏の知るところではないだろうから書き記す。

 

朝食にはきっかり250.0gの白米、お手製の味噌汁、そして不器用ながらに焼いた卵焼きに山盛りのキャベツ。見慣れた食卓だが、見る人が見ればキャベツはイビツなのかもしれない。
この日の朝食はわりに薄味でありがたかった。濃淡の"淡"を感じられることこそがセンスだと思わなくもないと近頃思う。べっとりとした濃紺のインキよりは、たっぷりの水と小指ほどの絵具で構成された薄青色を好きだと思いたい。

 

朝食を終えて愛しい女性(ひと)を見送る。
そして狭苦しく愛すべき我が家まで、原チャをノンビリ走らせること30分弱。


コンビニ、洗濯機、それにパソコンを通じて生活の些事をあらかた済ませるやいなや、足がひとりでに東をめがけて動き出す。ひとりになると"あの場所"へ向うということも、生活の些事のひとつとしてぼく自体の脳ミソにプログラムされているらしい。

 

その古びた喫茶店は千本中立売交差点の100円ショップの2階に鎮座している。タンクトップを着た老人こそ似合いそうなヒッソリとした玄関口をひっきりなしに出入りするのは、小奇麗な身なりをした女子大生のグループばかりだ。

池上彰がどう言うかはさておいて、ぼくたちの社会が実用主義と資本主義の産物であることを、否応無しにアタマに叩き込まれる。ここに来るとはそういうことなのだ。

 

ぎいいとドアを開け、ほこりっぽい店内を歩き窓際に座す。せわしなく動く店主に450円のケーキセットを注文して、それからしばらくは店主の顔を知り得る限りの漫画家の絵柄に変換することに終始した。やなせたかし荒川弘が争い、やなせたかしが勝った。

 

ぼくは「フランス現代思想史」という新書を読むつもりだったことを思い出し、数学や物理学で用いる概念を過剰なレトリックとして用いるといった、レヴィ=ストロース以降のフランス現代思想家の悪癖を振り返る旨の前書きに一通り目を通した。
ラカンの章に入ったところで言語学と哲学との分離を通じて処理落ちを起こし、頭が痛くなったので早々にケーキを食べ終えて帰宅することにした。iいつもながら驚嘆するのだが、どうしたって会計はきっかり450円であった。

 

これを書いているのは翌日の21時なのだが、それからのことはもはやあまり覚えていない。
しかしその後深夜にラム酒に少しのソーダを加えて飲んだこと、そしておぞましい動画を見てさらに気分が悪くなったということ。
これら僅かばかりの記憶の残滓を添えて、筆を置きたい。