みたらし

春休みの或る日のことだった。下宿にて、読んで字のごとく三日三晩寝っ転がっていた私はふっと思い立って、散歩に出かけることに決めた。いつも通りにシャワーを浴び、髪を適当に乾かす。それから、ちょっとクローゼットを漁った。これは先一昨日までとは違うところだ。

 

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暇に飽かして、肩に大きなカメラを提げたまま結構な距離を歩く。春先にしてはやけに暖かだったその日には、私の厚手の上着は不釣り合いだったようだ。後悔先に立たず、という言葉を何度も反芻しながら歩くと、そこに見慣れた河川が横たわっていた。鴨川である。

 

私は鴨川に沿って歩くことにした。昼下がりのうだるような暑さには鴨川の水がよく効くのだ、と下鴨の雑貨屋の店主が口にしていた気がする。けれども、この非常に乾いた喉はそれを求めてはいなかった。やれやれ。勢いに任せて川の水を飲むような義務教育はとっくに済ませてある、と言わんばかりの顔つきで歩けば、道沿いに一軒の茶屋があった。

 

なんとなく、見覚えがあるような気がした。どこか懐かしい、ありふれた、けれども確かな存在感を放つ茶屋であった。屋外の赤い縁台に腰掛けながら、3本のみたらし団子に目を輝かせる。

ここのみたらし団子は予想外にうまかった。奥ゆかしい味のするタレにまったりと舌鼓を打ちながら、冷たいお茶で喉を潤した。至福と同時に「みたらし」から、かの有名な向かいの神社の祭りを連想する。正確には、ゆっくりと記憶が清算されていく。

透き通った水に2枚の薄紙が浮かぶ様子が、今も尚、脳裏に焼き付けられていた。

記憶がだんだんと蘇ってきて、縁台の空白がなんだかぎこちなく思えて、唐突に哀しみに苛まれる。それからは、コンピュータが破損したデータを修復するみたいに、少しばかり呆然とする時間を要した。

 

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少し時間が経って、ようやく我を取り戻した私は席を立った。

せっかく来たのだから、と向かいの神社に足を向けた。何か気持ちの高揚するようなものを。花でも、撮って帰ろう。この季節なら、梅が良いかな。

 

境内に立ち入って辺りを見渡す。ぼんやりとふらついていると、すっかり散ってしまった梅の木が、ただそこに在った。どうやら先日の大雨を受けて、今年の梅はもうみんな終わってしまったらしい。

 

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私は諦めて帰途についた。夕暮れに差し掛かり、橋の上から見た鴨川には夕焼けのオレンジがきらきらとはじけている。祭りのあとの鴨川もこんな色だったっけ。もうきっとなんにも覚えていないから、尋ねることもないけれど。

 

行きと同じ言葉が、しつこいくらいに脳みそにこだまする。

鬱屈した気持ちを抱えながら、私は家路を急ぐのだった。